先月京都へロングランした時の事です。
(カスノさんにて)
現地の友人である先輩をお乗せしたのですが、先輩は意外なことに、オープンカー童貞でして。
「どうです?最高でしょう?」って誘導尋問しながら古都を流したのですが、その時の反応で面白かったのが、
「自己愛の補完に良いかも」
と言うものでした。
先輩はモテチンでイケメンのナルシスト野郎だと思ってましたが、
内実そうでは無く、イケメンでモテチンだけど自己愛低めなんだ、とか宣う。
(先輩近影)
ソレも母性くすぐり系のモテ戦略かよ!けっ!
って看破したボクなのですが、
オープン歴がソコソコあるボクからすると、その感覚には共感出来るところは有るにはあるけど、チョット違うかも?と、思ったんですよね。
先輩が仰る「自己愛の補完」が何を指すのか?芯食った理解が出来ていない気もしますけども。
若い頃、20代でビートに乗ってた頃を思い返すと、確かにその感覚は強かったかも、と思ったのですが。
自己愛の低さの裏返しで、カーニバルイエローのオープンカーでユーロビート流しながら伊豆の海辺を往復してイキるくらいに。
ですが5年前、再びビートのハンドルを持ってみて感じたのは、真逆に近い感覚。
周囲の目を意識するより、単に、脳天気にチープな開放感を味わうコトが意識の過半を占めていました。
「日常」という煤けた日々を生きるシガナイ中年男が、空に続くパーソナルスペースで加齢臭を風で洗い流すのです。周囲のことには意識が及ぶ暇もなく。
経験はないのですが、多分、町中でゴリラやモンキーに乗ってるオジサン居るじゃないですか。彼等と同じような感覚なんじゃないかなぁ。
自身の「ノー天気な行為」への自負はそれなりにあるけど、自分が思うほど、人は他人の事なんて見ちゃいない、ってことが分かるような歳になったってことも、あるのかも知れません。
俺のことなんて誰も注目しちゃいねよ。
(首都高にて出遭ったビート)
ボクとしては、合法的にノーヘルで乗れるバイクに乗ってる感覚。
バイク降りた代わりに手に入れた、或る一部分ではバイクより気持ちよく、楽しい乗り物。
という認識でした。
でした。
先日、それだけでも無い事に気付きました。
子供を乗せると、たとえ雨でも
「屋根開けて」
とせがみます。
クルマというより、遊具に乗る感覚。
これは、ビートでもA5でも変わらないようです。ビートのほうが、助手席に座れる分、遊具感が強いようですが。
そう。
屋根付きのクルマは移動の道具ですが、屋根が開くと、違う乗り物になるようです。
そして、それは、運転するボクと彼女との関係性も変えてくれます。
彼女を保育園へ送るのはボクの役得なのですが、
乳児のころは、ベビーカーに乗せて送ってました。
彼女を乗せたベビーカーを押しながら、通園路の緑道で交わす会話や道草が楽しかった。お喋り出来ない頃は、一方的に話かかけて。
今日は暑いね。お父さん夏は嫌いなんだ。だって暑いし。でも風が気持ちいいね。花の匂いがするね。面白い形の雲だね。今日は雨になるかな?
双方向になってからは、彼女の興味が赴くまま寄り道したり。
チューリップが咲いたら「チューリップ」を歌い、蝶を見つけたら一緒に「ちょうちょ」を歌い、雪が降れば「雪のペンキ屋さん」を歌い。
無駄に遠回りしたり、朝のバタつく移動を制限時間内で、めいっぱい共有しました。
その共有体験が、オープンカーに乗ることで延長できるのです。
「屋根開けて」
暑いよ?いいの?よし。アチー!風吹いても暑いね!これから3か月も暑いんだよ。やだなあー。お父さんは夏が嫌いなんだ。毎日言ってるけど。あ見て。雲。夏の雲だね。梅雨開けたよ。蝉。煩いなあ。アブラゼミだな。今年はもうセミの抜け殻見つけた?あまりたくさん拾ってきたらお母さん困るから少しにしなよ。
車外の季節の移ろいを肌で感じ、共有しながら、ベビーカーで散歩していたころのようなコミュニケーションが取れるのです。
こう書いても、字ずら追うだけでは伝わらないかもしれません。
ベビーカー押したことの無い方にも同様かも。
ですが、バイクでタンデムして、パッセンジャーとインカムで会話しながらツーリングしたことがある方なら、この感覚を共有できるんじゃないかなあ。
つまり、車に対して移動手段以外の価値を求める人種にとって、
オープンカーはコミュニケーションツールとして他にはない素晴らしいポテンシャルがあるよってことなのです。
(夜風が心地良かったのでお台場へ)
まあ、
この体験の共有があと何年延長できるか?
期限付きということも分かってるからこそ、替え難い価値を提供してくれているとも思うのです。
あ、そうそう。
彼女や夫婦だとまた違う有用性もあると思います。
屋根開けて喜ぶか嫌がるか、最初だけかずっとか。
性格診断や深層心理テストにも使えるんじゃないかな?
しらんけど!